沖縄県石垣島が生んだ鬼才・髙嶺剛の最新作『変魚路』が、現在イメージフォーラム(東京・渋谷)ほかで全国順次公開されている。本作は、二人の男、パパジョーとタルガニの旅道中を描いたロードムービー。怪しげな商売人とその妻、三線弾きの石膏職人などが登場し、リアルでありながら架空の世界へと迷い込む。
沖縄"らしさ"を超えて、風景に漂う"地の匂い"
生きているのがむなしい、消えてしまいたいという人々の居場所、パタイ村。その海辺にある「ウィフェーパタイジョー(小死場、ちょっとしにばしょ)」で行われる儀式は、ビニール水中爆発映画機械を使って、自身の身体から型どりした石膏を粉々に砕き、仮の自殺をはかる。赤紐が引かれる合図とともに「かぎやで風(発音は「かじゃでぃふぅ」、琉球古典音楽のひとつで慶事の曲)」の演奏によって始まると、そこに集う自殺願望をもつ老若男女が、一斉に自分の幼少期と思われる写真を見る。虚無感にとらわれ、身動きできずにいる人々の表情からは、無力感がひしひしと伝わる。

この『変魚路』は、石垣島が生んだ鬼才、髙嶺剛の18年ぶりの劇映画である。髙嶺の天才的な直観力は、沖縄芝居と琉球音楽とを映像と交配し、活性化させるという独特の映画づくりにある。1910年頃日本で流行した「連鎖劇(演劇と映画とが組み合わさったもの)」の形式を、二人の男がなぞっていくが、そのパパジョーとタルガニを沖縄芝居の名優、北村三郎と平良進が演じることで、映画にパースペクティヴを与えている。また、それぞれアーティストとして活動している、山城知佳子や阪田清子、石川竜一が制作や出演に参加しているのも、興味深い。
そもそも、この映画は全編において、概念的な沖縄らしさをもっていない。しかし、濡れたコンクリートの匂いが立ち上るような、湿り気のある映像は、私の鼻の奥をくすぐり、懐かしい風景の記憶に絡みついて、いとおしい。現実の風景は簡単に人を欺くが、映画の中のそれは空虚(うつろ)な時間を内包しつつ、静のリアリティーに充ちている。『変魚路』の魅力的な場面の数々は、このうえない眼福の極みである。
豊見山愛(沖縄県立博物館・美術館主任学芸員)=文
(『美術手帖』2017年2月号「INFORMATION」より)
監督・脚本:髙嶺剛
出演:平良進、北村三郎、大城美佐子
配給:シネマトリックス
URL:http://www.cinematrix.jp/hengyoro/