ニューヨーク拠点のアメリカ人アーティスト、スペンサー・フィンチは一風変わった「風景画家」として知られている。フィンチが題材として選ぶのは、イエローストーン国立公園のような風光明媚なエリアや、詩人エミリー・ディキンソンの生家という歴史的背景のあるところなど、いわゆる「よく知られた場所」だ。しかし、フィンチはそれらの風景をただ写生することはしない。フィンチの作品はパントーンの色見本を並べたようなカラフルなものが多く、一見すると抽象画のようだ。なぜフィンチはそれらを「風景画」と呼ぶのか、制作プロセスにその理由がある。ここでは彼の作品の一部とともに、彼の「風景画」制作のプロセスを紹介したい。
モネの足跡をたどる──間接的風景画のはじまり
風景画の制作に興味を持ち始めた頃、フィンチは友人から「風景画を理解するにはモネは外せない」と勧められ、モネの絵画を模写するようになる。もともと「アンチ・モネ」だったフィンチ。しかしモネの光や色彩の表現手法を後追いするうちに、モネの絵にすっかりはまるようになる。「モネの風景画から非常に多くのことを学んだ」とフィンチは語る。
そのうち模写では飽きたらなくなったフィンチは、モネが繰り返し描いたフランスのルーアン大聖堂へのスケッチ旅行を計画する。限られた時間を最大限に使えるように、大聖堂のすぐそばのホテルを予約し、気合を入れてフランスに向かう。ところが現地に着いてみると、大聖堂は修復中で、建物全体が工事用の足場で覆われていた。
突如目的を失ってしまったフィンチは、ホテルの部屋の中で「この旅行でどんな風景を描けばいいのか」と考えた。そこで、机、枕、床といった室内にあるものに焦点を定める。モネと同じように朝、昼、夕方と一日を通じて、光の加減でそれらの色が移り変わる様子を観察し、画用紙の上に斑点状に並べていった。
描いたものこそ違えど、モネと同じ場所、同じ手法でスケッチを行ったフィンチ。苦肉の策ではあったものの、この経験を境にフィンチは、視界に入ってくる光景をくまなく写生することが「風景を描くこと」である必要はないと考えるようになる。ここからフィンチ独自の「風景画」への探求が始まる。
科学機器を使って場所を計測
大学で比較文学を専攻したフィンチは、文学作品から風景に関する着想を得ることがある。ニューイングランド(アメリカ北東部)出身のフィンチは、同郷の詩人エミリー・ディキンソン(1830〜86)や作家ヘンリー・デイヴィッド・ソロー(1817〜62)の作品を通じ、彼らが「私たちとは違う、とても深いレベルで自分たちの住み処について知っていた」と感じた。
先人たちは、光や香り、風の加減、それらが季節によって移り変わる様に敏感で、自分たちの周囲の環境を五感で熟知していた。彼らにとって、視界から得られる情報はそんな「風景」の一部にしか過ぎない。そしてフィンチは総合的な風景の情報を得るために、科学機器を用いるようになる。

エミリー・ディキンソンの感じたであろう風を再現した作品。フィンチはマサチューセッツ州にあるディキンソンの生家に赴き、彼女の過ごしたベッドルームに吹き込む夏の風を風速計で計測。そのデータに基づいて扇風機が風を送るようプログラムを組んだ
Courtesy of JAMES COHAN
《Walden Pond(surface/depth)》(2013)は、ソローの見た風景をたどる作品。ソローは『ウォールデン 森の生活』(1854年)を書くきっかけとなったウォールデン池畔での滞在中、近隣住民の間ではこの池が「底なし」であると信じられていることを耳にする。
さらに誰も池の深さを調べたことがないのを知ると、自ら測量に乗り出す。ソローは、凍った池の氷上に穴を開け、石を結んだ釣り糸を垂らすというシンプルな方法で、100か所以上の水深を計測、池底の存在を実証した。

Courtecy of JAMES COHAN
《Walden Pond(surface/depth)》をつくるにあたり、フィンチは水深を測るロープに加え、GPS、水深計測器という科学機器を携えてウォールデン池に赴き、ソローに倣って池の測量を行った。約300か所の計測を行い、カードに位置情報を記載、その地点の水の色を水彩で再現した。そして水深の順にカードをロープにつなぎ、観測ルートの形に並べたのがこの作品。
「池の深さ」という普段は目に見えないものも、ソローの計測を経て、ウォールデン池を構成する要素の一つとなった。フィンチは、見えない「風景」も作品に取り込んでいく。
色のうつろいやすさ
フィンチはニューヨークの観光スポット「ハイライン」でのプロジェクトも手がけた。《The River That Flows Both Ways》(2009)は、ハイラインに隣接するハドソン川をテーマとした作品。
フィンチはハドソン川にボートで繰り出し、12時間近く費やして、1分毎にその水面を写真に収めた。そして700枚に及ぶ写真のそれぞれから、1つのピクセルを選び出し、その色をフィルムにし、ガラスに重ねた。できあがった700枚のステンドグラスを時系列に並べたのが《The River That Flows Both Ways》。

ハイラインはハドソン川の景色を撮影する、絶好のスポット。しかしいくら写真を撮っても、ハドソン川の姿のすべてを捉えることはできない。写真を用いることで、写真の限界を伝えている
Courtecy of JAMES COHAN
光や大気の状態によって、川は刻々とその姿を変えている。写真で切り取ることができるのは、そのうちほんの一瞬のみ。その「一瞬の色」を積み重ねることで、絶え間なく変幻する川の様子がようやく浮かび上がってくる。それでも川の「すべて」を見ることはできない。フィンチの作品の多くは、この「すべてを見ることはできない」という自覚を出発点としている。
ひとつの出来事、たくさんの記憶
ニューヨークにある9.11メモリアル・ミュージアムのロビーにもフィンチの作品が並ぶ。《Trying to Remember the Color of the Sky on That September Morning》(2014)は、1枚ずつ異なった階調の青で塗られた2983枚の紙からなる。「2983」は、1993年の「世界貿易センター爆破事件」と2001年の「アメリカ同時多発テロ事件」によって、ワールドトレードセンターで亡くなった人々の数。

「事件の日、それを経験した一人ひとりの目に映った空の色はそれぞれ違っていたはず」という思いがこの作品に込められている
Courtesy of JAMES COHAN
名前をつけられ、画一的に語られるようになってしまった出来事であっても、人によってその心象風景はさまざま。「風景といっても、そこにはいつもいろんな視点が存在する」とフィンチは語る。そして、「それらをすべて表現することは不可能である」ということが、たびたびフィンチの作品のテーマになっている。
見えにくい風景を見やすくする装置
最新作品は、ブルックリン中心地にあるプラザに登場した《Lost Man Creek》(2016)。フィンチが「生きた素材」を用いた初めての作品となる。(ニューヨークのMetroTech Commonsにて、2018年3月11日まで展示中。)
この作品は、カリフォルニア州・レッドウッド国立公園の一角790エーカー分(約3.2㎢、東京ドーム約68個分)の森を100分の1のスケールで再現したもの。本来は30〜115メートルに及ぶ大木が、30〜120センチ丈の4000本のレッドウッドの苗木に置き換えられている。観賞用のデッキが用意されており、注意深く観察するとレッドウッドの森でキャンプをする人々になぞらえたミニチュアが並べてあるのに気がつく。
Courtesy of Public Art Fund https://vimeo.com/189787707
このパブリック・インスタレーションは、レッドウッドの保全団体と協力して実現したもの。レッドウッドに限らず環境保全は深刻な課題であるにもかかわらず、ニューヨークで暮らす人々にとっては、なかなか共感しづらい「抽象的」な問題。しかし見る人が、ミニチュアの人型に自分を重ね合わせて、森のスケールを頭の中に描くことで、その問題が少し「見えやすく」なる。このような「見えにくい」風景を見えやすくする装置も、フィンチの「風景作品」の中では大事な要素になっている。
作品に深く根ざす日本での経験
実は、1980年代にフィンチが学生だった頃、日本で2年間過ごしたことがある。そのときの経験は、彼の表現に大きく影響し、その後の作品には日本的な感性が強く反映されていると語る。
なかでも、中世の俳諧師・荒木田守武(1473〜1549)の句「落花枝に かへると見れば 胡蝶哉」は、フィンチにとって大事な警句になっている。「散った花びらが枝に戻るように一瞬見えたが、よく見るとそれは蝶であった」という内容のもの。
この句は「物事にはいろいろな見え方があること。そしてそれぞれの光景は儚い一瞬のものであること」を体現しているとフィンチは考え、彼の風景作品の根底にはその世界観が流れている。そしてそれは「すべてを見たり知ったりすることはできない」という「不可知」の認識へと展開され、フィンチの制作スタイルに大きな影響を与えている。
可能な限り自分の目で見て確かめることを重視し、必要に応じ科学機器を用いながら、気の遠くなるような調査や測量を重ねて、風景画を制作をするフィンチ。そこには、人間の認知の限界を知りながら、風景を描き続けるという行為に対する、フィンチの真摯な姿勢が込められているように感じられる。
場所:MetroTech Commons
住所:5 MetroTech Center,Brooklyn, NY 11201
URL:https://www.publicartfund.org/