ゴッホといえばひまわり。ひまわりといえばゴッホ。そういったイメージが定着しているのは、ロンドンのナショナル・ギャラリー所蔵の《ひまわり》(1888)があるからでしょう。
上野で開催されている2つの展覧会「ゴッホとゴーギャン展」(東京都美術館)、「デトロイト美術館展」(上野の森美術館)において、ゴーギャンとエミール・ノルデが、それぞれにこの《ひまわり》に触発され、ゴッホへのオマージュとして描いたと解釈される作品が展示されています。本記事では、それら2作品を紹介するとともに、ゴッホにとって「ひまわり」とはどのような意味を持っていたのか、探っていくこととしましょう。
夢の象徴─ゴッホとひまわり

(「デトロイト美術館展」出品作品)
「第8回印象派展」(最後の印象派展)が開催された1886年、画商の弟テオを頼って、ゴッホはオランダからパリにやってきます。印象派の画家や作品に接し、ゴッホの作風は、オランダ時代の暗い褐色を基調としたものから大きく変化します。赤や緑、青、黄色などの明るい色が画面にあふれるようになるのです。それは、私たちがしばしばイメージする、色彩画家としての「ゴッホ」への第一歩でした。
パリ時代のゴッホは、当時最新の理論だった「補色」の研究など色彩の研究に熱中し、その一環として花の静物画を多く制作しています。パリ時代の後半である1887年の春頃から、モチーフのひとつとして、ひまわりが作品に登場するようになりました。そして、1888年に移った南フランスのアルルで、ひまわりは彼にとって、単なるモチーフ以上の意味を持つことになります。陽光と鮮やかな色彩にあふれるアルルに、画家たちの共同体をつくることを夢見るようになったゴッホが、そのシンボルとして選んだのが「ひまわり」だったのです。
16世紀にアメリカ大陸からヨーロッパへ持ち込まれたひまわりは、「太陽に顔を向け続ける」習性があると考えられ、画家たちに「信仰」や「愛情」の象徴として描かれてきた歴史がありました。北方出身のゴッホが憧れ続けた「太陽」を想起させる花でもあります。芸術家たちが兄弟愛に満ちた生活を送るという自らの理想を託すのに、ゴッホにとってこれ以上なくふさわしい存在だったと考えられます。
やがて、パリ時代に親交を結んでいたゴーギャンがアルルに来ることになり、ゴッホは共同生活の舞台となる「黄色い家」を、12枚のひまわりの絵で飾ることを思いつきます。ひまわりはすぐにしぼんでしまうため、一気に描きあげてしまう必要がありました。しかし、決して楽ではないこのプロジェクトにゴッホは没頭します。燃えさかる火炎のようにすら見えるひまわりは、理想に燃える画家の喜びや前向きな気持ちをそのまま映しているようにもとれます。
結局、ゴーギャンが到着した10月までに描き上げられたのは5枚。その中の一枚が、冒頭で紹介した《ひまわり》でした。互いに強い個性を持つゴッホとゴーギャンの共同生活は2か月で破綻し、ゴーギャンはパリを去り、ゴッホも有名な「耳切り事件」を起こして自ら入院します。アルルを去って以後、夢の象徴でもあったひまわりを、ゴッホが描くことはありませんでした。
友へ─ポール・ゴーギャン《肘掛け椅子のひまわり》

共同生活が始まって約1か月が経った頃、ゴーギャンはあることを思いつきます。「大好きなひまわりを描いているフィンセント(ゴッホ)の姿を描こう」と。
ゴーギャンがアルルに到着したのは10月。ひまわりの時期はすでに過ぎており、ゴッホがひまわりを前に筆を走らせる姿を彼が実際に見た可能性はほとんどありません。しかし、豊かな想像力を持つゴーギャンは、記憶や想像をもとに絵をつくることができました。花瓶が椅子にのせられているなど、現実とは微妙に異なっているとされる点もあるものの、家を飾っていた花瓶いっぱいのひまわりの絵、そしてキャンバスに向かう友の姿を結びつけ、絵が描かれた場面を「再現」しました。
絵は12月に完成。さっそくゴッホに見せると、次のような言葉が返ってきました。「これは確かに僕だ。だが、気が違った僕だ」。2人の共同生活が破綻したのは、それから間もなくでした。

1890年にゴッホがこの世を去るまで、2人は直接会うことはなかったものの、手紙のやりとりは続けていました。ゴッホの死から10年が経った1901年、ゴーギャンは友人に頼んでひまわりの種をタヒチに取り寄せ、数枚の作品を制作します。その一枚がこの《肘掛け椅子のひまわり》でした。
大ぶりな花瓶に活けられているのは、亡き友が愛したひまわり。《ひまわりを描くフィンセント》と同様、椅子の上に花瓶をのせ、画面の真ん中に大きくクローズアップしています。肘掛け椅子は、アルル時代、ゴッホがゴーギャンのために用意したもの。友人との思い出に結びつくこの椅子に、ゴーギャンは自らのサインを入れました。かつて自分の意思で友のもとを去った彼は、自らの姿を肘掛け椅子に託し、しっかりとひまわりを受け止めているのです。
新たな種─ノルデとひまわり
「赤と緑とによって、人間の恐ろしい情念を表現したい」。アルル時代、弟テオに宛てた手紙で、ゴッホはこのように述べています。ゴッホは、色彩が「目の前にあるものを正確に表現する」ための道具となるだけでなく、「それ自体がなにごとかを表現する」ものと気づいていました。そして、「恐ろしい情念」の表現のために自由に色彩を使ったゴッホの絵画は、20世紀初頭、新たな美術運動の礎となったのです。
フランスでは、マティス、ヴラマンクらのフォーヴィズムの誕生を促しました。ドイツでは「表現主義」と分類される若い世代の画家たちに影響を与えました。そのひとりがエミール・ノルデ(本名はエミール・ハンセン、1867~1956)です。
木彫装飾師としてスタートを切り、31歳頃から絵を学び始めた彼は、請われて表現主義者たちのグループ「ブリュッケ」に参加しますが、1年で脱退し、独自の道を歩みます。彼が画家を志したきっかけには、ゴッホの《向日葵》があったと言われています。

ゴッホへのオマージュとして制作されたこの作品。どろりと濃い藍色の空をバックに描き出されるのは、2輪の向日葵。しかし、炎のようなエネルギーをたたえていたゴッホのひまわりとは対照的に、しんなりとして元気がなく、自らの重みでうつむく枯れかけの姿です。当時ガンを患っていたノルデの心象風景が反映されているのかもしれません。
ナチスが政権を握ると、他の表現主義の画家たちと同様、ノルデも「退廃画家」の烙印を押され、1941年には制作すら禁じられてしまいました。それでも彼は筆を捨てず、手のひらサイズの紙に、素描や水彩画を描き続けました。終戦を迎えると、それらの「描かれざる絵」をもとに、ふたたび油絵を制作しました。枯れかけのひまわりが象徴するのは生命の「終わり」ではなく、たくさんの種をつけて次代へと生命をつなごうとするエネルギーなのかもしれません。
生前はほとんど顧みられることなく、売れた作品も一枚だけだったゴッホは、決して成功した画家とはいえませんでした。しかし、彼が残した《向日葵》、そしてそこにこ込められた思いや情熱は、見る人の心をとらえて離さず、時には心に種を落とし、新たな花を咲かせてきたのです。
会場:東京都美術館
住所:東京都台東区上野公園 8-36
電話番号:03-5777-8600
開室時間:9:30~17:30(金曜日、10月22日、11月2日、11月3日、11月5日は20:00まで。入室は閉室の30分前まで)
会場:上野の森美術館
住所:東京都台東区上野公園1-2
電話番号:03-5777-8600(ハローダイヤル)
開館時間:9:30~16:30 (毎週金曜日は~20:00 入館は閉館の30分前まで)
休館日:なし
入館料:一般 1600円 / 大高生 1200円 / 小中学生 600円
URL:http://www.detroit2016.com/